
[写真]三鈴陶器(株) 代表取締役 熊本 泰弘
三鈴陶器(株)
三重県三重郡菰野町永井3098-1
TEL:059-396-0529
https://misuzu-c.com/
焼き物の土のように
自在に変化する会社
1960年、萬古焼が一大産業として沸く三重県四日市。駅前には窯元が立ち並び、街じゅうが土と炎の匂いに包まれていた。そんな中、三鈴陶器の創業者はあえて市街地を離れ、町はずれの農村に窯を築いた。
当時の四日市はコンビナートの建設が進み、空気中には鉄分が多く含まれていた。「そんな環境では、いい土鍋は焼けないと父は言っていました」。祖父の決断は、時代の“流れ”に逆らうようでいて、実は流れを読む選択だった。社会の変化の兆しを読み取り、受け入れ、変幻自在に形を変える――。柔軟な企業姿勢は、創業当時から息づいている。
萬古焼は、瀬戸や美濃と比べれば歴史も浅く、知名度も低かった。急須や和食器をつくったところで選ばれにくい。四日市の多くの工場が洋食器の製造を進めるなかで、三鈴陶器は洋食器だけではなく土鍋の製造にもチャレンジした。
「家庭用ガスコンロの火力が強くなって、従来の土鍋では割れてしまうことが増えていたんです。そこで、耐熱性を高めるためにペタライトを混ぜた土鍋づくりに挑みました」。
1970~80年代、ガス火に強い萬古焼の土鍋は市場を席巻し、三鈴陶器も波に乗った。市場環境や暮らしの変化に合わせて形を変える。そのしなやかな姿勢こそが、時代の変化に打ちのめされても決して割れない三鈴陶器独自の強さへとつながっていく。

[写真:左]無数の柱が美しい木造の工場。古く趣ある建物は小学校を移築したものだという。[右]奥行が長く大量のロットを一気に焼成できる通称『トンネル窯』。そのスケールゆえ少量の焼成には対応しづらいため、昨今これが常時使われているのは珍しいという。
作り直した。
製品ではなく、工場そのものを
1970~80年代、ガス火に強い萬古焼の土鍋は、日本の冬の食卓を席巻した。寒い夜、家族で囲む食卓の中心に土鍋があった。しかし、1990年代になると、かつては1000個、2000個単位で届いていた大口の発注が、月を追うごとに減っていく。食卓の主役が電気製品へと移り、暮らしのスタイルが静かに変わり始めていたのだ。
「お客様の暮らしが変われば、鍋に求められるものも変わる。作れば作るだけ売れる時代ではなくなった。時代は何を求めているのか、考える必要がありました」。社長の言葉には、社会の変化を正面から受け止めた人間の覚悟がにじむ。
ここで、農村の小さな窯元は一つの決断を下す。大量生産から少量多品種へ。工場の生産体制を大きく変えることにしたのだ。
「同じ形を何千個も作るだけでは、もう立ち行かない。20個、30個といった少ない数でも受けていかなくてはならない。お客様ごとに求める形やサイズが違うので、最初は手間がかかって本当に大変でした」。
顧客の細かな要望に合わせ、土を変え、型を変え、釉薬を変える。少量多品種への対応は、手間も時間もかかるが、その積み重ねが技術を磨き、現場を鍛えた。新しい形を作るたび、ノウハウが蓄積され、職人たちは自信を手にしていく。柔軟に変わることが、三鈴陶器をより強くした。それはもはや“生き延びるための変化”ではなく、“進化するための変化”だった。

[写真:左]成形の工程。型から抜くその瞬間に思わず固唾をのむ。[右]取っ手をつけるその表情は真剣そのもの。つける位置や角度は長年の経験からだろうか、寸分違わず同じである。

[写真:左]表面に表情をつける。モノによって、スポンジなど素材や粗さを変える。ささやかながら仕上がりに大きな違いが。[右]塗った釉薬を確認する。並んだ鍋を見ると、もれなく、ムラ無く美しく塗り上がっていた。
もう、変化を待たない。
自ら仕掛ける窯元へ
1990年代、同業者が次々に廃業していく中で、三鈴陶器はさらなる変化に挑もうとしていた。「このまま受注を待っているだけでは、いずれ自分たちも消えていく」。そう感じていた社長が次に選んだのは、近隣の若い経営者たちと手を組むことだった。
4つの窯元が手を取り合い、自分たちのオリジナルブランドを立ち上げる――。若い野心が集まって生まれたのが、有限会社4th market。商社を通さず、自ら企画・デザイン・販売までを行う。前例のない挑戦だった。
「最初はどうやって売ればいいかもわからない。価格をいくらに設定すればいいかもわからない。でも、“自分たちの名前でモノを出す”という挑戦に、すごくワクワクしたんです」。
デザイナーの無茶な要求に頭を抱えながら、他社の技術を見て学び、磨き合い、刺激を与え合う。4社のノウハウが交差したその現場は、まさに“実験室”のようだった。「4th marketでの経験がなければ、今の三鈴陶器はなかったと思います。あの挑戦を通して、“変化を恐れないDNA”が明確にうちのカルチャーに刻まれました」。

差し込む光りと、高い天井が織り成す陰影のコントラストが美しい作業場。見惚れてついつい長居してしまう。
この挑戦で得たものは、単なるブランド力だけではない。“自分たちの力で未来を切り拓いていける”という、自信と確信だ。
執念が引き寄せた
クリスマスプレゼント
時代の荒波を乗り越えてきた三鈴陶器だが、2023年、また大きな壁に直面する。土鍋づくりの原料・ペタライトの価格が、世界的なEVブームで急騰したのだ。ジンバブエ産のペタライトを中国資本が買い占め、価格はわずか数年で3倍に跳ね上がった。
「もはや買える価格じゃない。でも、陶器づくりを止めるわけにはいきません。そこで、ペタライトは使えないという前提で、原料や配合を改めて研究しなおしたんです」。
替わりに目を付けたのは、安価に手に入るコージライトという素材。だが、コージライトを混ぜた土でつくった土鍋は使い物にならなかった。火にかけるとすぐに割れてしまうのだ。
事務所で毎日毎日試作品の土鍋でご飯を炊き続けた。米を研ぎ、火にかけ、割れたことを確認する。土の配合を変えた鍋を火にかけ、また割れる。300個以上の土鍋をつくり、試験を繰り返した。
「ピキーン!という甲高い音がするんです、土鍋が割れるとき。あの音を聞くのが本当に嫌でね」。社長は苦笑しながら、当時を振り返る。

大きな窯へ、大人3人がかりで陶器を入れる。
土の配合、焼成温度、釉薬の種類、ありとあらゆる可能性を模索した。そして、試作を始めてから約半年後のクリスマスイブ。試作した5つの鍋を火にかけ、ご飯を炊いた。結果、一つも割れなかった。「その夜のことは今でも忘れられません。やっと前に進めると思いました」。
2024年正月、三鈴陶器は主力製品の多くをコージライトに切り替えた。“柔軟に変わる力”が、再び会社を救った瞬間だった。
柔らかく、しなやかに。
三鈴陶器は決して割れない
日本の焼き物市場が縮小するなかで、三鈴陶器の視線はすでに海の向こうを向いている。中国、タイ、東南アジア――。購買力が高まり、陶器文化が根付くこれらの国々には、かつての日本にはなかった勢いがある。
「上海の展示会を見て衝撃を受けました。日本のギフトショーの何倍もの規模で、どのブースもすごく華やか。ライブコマースで“一日で二千万円売れた”なんていう声も聞こえてくる」。
中国では、土鍋は生活に根付いた道具であり、日本では7,000円でも高いとされる土鍋が、中国では1万円でも売れる。数が出なくても、品質の高さとデザインの美しさで勝負ができる。四日市から世界へ。これから社長は海外を飛び回ることになるのだろうか。
「いいえ、海外販路の開拓は商社や卸に託しています。うちはあくまでつくる会社。自分が長期出張で工場を空けてしまうと、日々の判断が回りませんから」。
その一方で、国内でのイベント出店や直販には力を入れ、ユーザーの声を直接聞く機会を大切にしている。
「『あの土鍋かわいい!』って指をさして言われたときは、頑張ってきてよかったなと心から思いました。現場でその反応を聞くと『次はこんなものをつくろう』と、また挑戦する気持ちが湧いてくるんです」。
人の声に耳を澄ませ、時代の流れを受け入れ、自らの形を変えていく。焼き物の土のように、柔らかく、しなやかに。これからの三鈴陶器がどう変化するかはわからないけれど、確信を持って言えるのは、この会社はきっとどんな困難にぶつかっても決して割れることはないということだ。


編集担当:葉名尻 大貴
社長の新しい一面を発見!
三鈴陶器の工場の片隅には、社長専用の実験室のような場所があります。そこで日々、土や釉薬と向き合い試行錯誤する姿はまるで研究者のようでした。ただ、今日のお話を聞いて改めて社長の経営者としての一面に触れることができました。ガスの専門家として、これからも三鈴陶器の進化を陰ながら支えていければと思います。