血のつながりはなくとも、
信頼でつながれる。

左/大健工業(株) 代表取締役社長 髙木 海さん、右/専務取締役 可知(かち) 文明さん
[写真:左]大健工業(株) 代表取締役社長 髙木 海 [写真:右]専務取締役 可知(かち) 文明

大健工業(株)
岐阜県中津川市茄子川字鯉ケ平1143
TEL:0573-68-2861
https://www.taikennet.com/

父を亡くした青年が、突然町工場の“社長”になった。当時、まだ26歳。右も左もわからないまま背負ったのは社員数十人の人生。そんな彼の隣に、ひとりの男がいた。現場を知り尽くした工場長――現専務である可知文明。「支えてやらなきゃ、と思ったんです」。血のつながりはない。それでも、まるで親子のように。父を失った若き社長と、もう一人の“父”のような専務。その強い絆、信頼関係が、今の大健工業を動かすエンジンとなっている。

現場を知らない
社長の誕生

現社長が大健工業に入社したのは、大学卒業してすぐの23歳のとき。副社長として働く父は、当時すでに長く脳腫瘍の療養中だった。「僕が入社する頃には父はもう仕事に出られない状態で。自分の意思とは関係なく入社せざるを得ない状況でした」。

最初に手術を受けたのは、社長が小学5年生の頃。病気が進行して歩けなくなっても、車いすで出社し、会議にも参加する。そんな父の姿を見て育った。

「僕が入社して3年後に父が亡くなり、翌年には創業者である祖父も亡くなった。もう、自分が社長になるしかなかったんです」。

創業家の二人が立て続けにいなくなり、普通なら大混乱に陥りそうだが、社内は落ち着いていた。長い闘病生活を見守ってきた社員たちは、覚悟を決めていたのだろう。

「ありがたいことに、いいお客様にも恵まれました。それに、当時工場長だった可知専務がしっかり現場をまとめてくれていた。何もわからない中でも、自分のペースで覚えていけました」。

経営に関してもはじめてのことばかり。事業計画を立てても、従業員が賛同してくれるかがわからない。そんなときも、間に立ってくれたのが可知専務だった。

「僕みたいな若造の言葉に、説得力なんてなかったと思います。でも可知さんが納得してくれて、工場のみんなに伝えてくれた。おかげで会社が一つにまとまりました」。

父のように組織運営をリードしてくれた人。そして今も隣で支え続けてくれている人――。社長と可知専務の信頼関係は、そこから始まった。

0.1ミリにこだわる執念が
会社の未来を拓いた

大健工業の歴史は古く、今から70年前にまでさかのぼる。創業者である祖父が立ち上げた中津川ダイカストという会社と金属部品の加工を得意としていた大健工業が一つになり、金型設計から加工までをワンストップで手掛ける現在の大健工業へと受け継がれてきた。

「創業当初はとても簡単な加工の仕事が多かったと聞いています。鉄の棒を切って長さを揃える、そんな単純作業がほとんどで。ところが、会社を立ち上げて20年ほど経った頃にIHIさんから届いた開発依頼が、当社の技術力を大きく引き上げてくれたんです」。

転機は突然やってきた。IHIからの依頼は、無謀とも思える挑戦だった。「自動車用ターボチャージャーを、ダイカストでつくれないか」。当時、その部品は砂型でしかつくれないと誰もが思っていた。精密さと複雑さが要求され、ダイカストで量産するなんて「不可能だ」と。しかし、大健工業は引き受けた。

アルミの溶解炉(左)とプレス成形された製品が流れてくる様子(右)

[写真:左]原材料となるアルミの溶解炉。ここでアルミニウムを溶かして液体に変える。[右]液化したアルミニウムを金型に流し込む。プレス成形された製品がラインに流れてくる。

バリ取り(左)とブロワー作業(右)工程の様子

[写真:左]その次の工程が「バリ取り」。使わない部分を木槌などで打って落とす。プラモデルの不要な部分を切り落とすような作業。[右]一つ一つ、手作業で確認しながらブロワーで綺麗にしていく。

「図面をもらって、金型をつくって、試作して…うまくいかないから削ってまた試作。当時の職人たちは徹夜でそれを繰り返したんです」。高度な設備がない時代、作業はすべて手作業。金属が収縮してなかなか寸法が合わない。その度に金型を削り微調整を重ね、ターボチャージャーはようやく形になった。

社長は歴史の重みに思いを馳せる。「0.1ミリ単位の戦いで、本当に大変だったと聞いています。けれど、当時の職人たちの頑張りが大健工業の未来を拓いてくれた。IHIさんは今でも当社の一番の主要取引先ですから」。

極寒の倉庫での
全品検査がつないだ絆

ターボチャージャーの量産化を実現してからも、道のりは平坦ではなかった。求められる精度が極めて高いため、ほんのわずかなズレが命取りになる。

「もう20年ほど前になりますが、あのときは本当に大変でした」と可知専務は苦笑する。

納品物の不良が続いた時期に、毎日IHIの倉庫へ足を運び全品検査を求められた。真冬の倉庫で手がかじかむほどの寒さの中、何千もの部品を一つひとつ目で確認していく。そんなことが、2~3か月続いた。

「薄暗い倉庫の中で、設備もなく大した検査もできないのにと思いながら、文句も言わず続けました」。

辛い経験だったが、その2~3か月が後の大健工業の大切な財産を育んだ。毎日顔を出すうちに、先方の多くの社員と顔見知りになれたのだ。

「『お前また来とるんか~。大変やな~』と、色んな方が声をかけてくれました。当時仲良くなった方の多くが今ではIHIの幹部。そのつながりが今の仕事にもつながっています」。専務はそう振り返る。

不具合を他責にせず、顔を出し、手を動かし、関係を築く。その“誠実さ”こそが、大健工業の最大の武器だ。社長は言う。「祖父や父、そして専務が築いてきたお客様との絆の深さを、今でも強く感じます。私が今、経営を続けていけるのは、あの時代に専務が現場で築いてくれた信頼関係があるからなんです」。

自ら発信する、開かれた工場へ

大健工業の未来は、過去の延長線上にはない。現社長は先を見据え、インターネットという“新しい工場の窓”を開いた。コロナ前からSEO対策に着手し、同業他社に先駆けて自社サイトを整備した。

「私は職人ではありません。でも、仕事の“きっかけ”をつくることはできる。うちの職人たちは本当に優秀で、難題にも逃げずに向き合う。見つけてもらえさえすれば、必ず期待に応えられると信じています」。

その狙いは単なる広報にとどまらない。IHIの仕事だけに依存せず、造船・発電・農機など新たな分野にも挑むための布石だ。実際、サイトを通じた問い合わせから、新しい顧客との取引も始まっている。“発信する工場”という新しい時代の風を、社長は掴んだのだ。

そんな社長の挑戦を、可知専務は頼もしげに見つめている。「彼はとても勉強熱心で、経営やシステムのこともよく考えています。無駄遣いもしないし、社長業に非常に向いているんじゃないかな。彼に任せておけば、大健工業の未来は明るいと安心して見ています」。

社長が新しい仕事を生み、専務が現場を整え、職人たちが技術で応える。それらすべてがかみ合い、会社は確かに前に進んでいる。「挑戦できるのは、専務や現場が支えてくれているから。自分ひとりじゃ何もできません」と社長は笑う。

70年を超える歴史の中で、幾度も形を変えながらも、変わらず受け継がれてきたのは、“信頼で動く会社”という在り方だ。顧客との信頼、現場との信頼、そして社長と専務の親子のような確かな信頼があれば、大健工業の未来は決して揺らぐことはない。

メンテナンスが行われている無数の金型

金型のメンテナンスも品質保持上、非常に大事な作業だ。周囲に居並ぶ無数の金型が、大健工業の技術への無言の信頼を訴えているようにも映る。

血のつながりはなくとも
信頼でつながれる

この言葉こそ、大健工業という会社のあり方を象徴している。若き社長が未来を描き、専務が現場で支える。二人の呼吸が合い、全社が一丸となったとき、会社は確かに前へ進む。数十年前、不可能を可能にした職人たちの執念。不良が続いても逃げなかった専務や現場の誠実さ。そして今、信頼で結ばれた二人のリーダーが、新しい時代の扉を開こうとしている。大健工業のモノづくりは、金属を削るだけの仕事ではない。人と人の間に、目に見えない“信頼”という形をつくり出す。それこそが、大健工業らしいモノづくりの在り方だ。

編集担当:後藤 成人

編集担当:後藤 成人

温かい、体温のある会社

取材を通じて感じたのは、「信頼」という言葉の重み。26歳で就任した若き社長と、その背中を支えてきた専務や現場の職人たち。その信頼関係が、会社全体の温かい雰囲気につながっている。社長と専務、2人のインタビューから人間らしい体温のある社風が伝わってきました。

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